date 2011.11.16
かなり遅めの昼食を済ませて。
おそば屋さんでしっかりトイレを借用、身なりを整えて再び南に向かって歩き出します。
千住仲町商店街を抜けて「やっちゃ場通り」の中程にあるこの標識。書かれてある「大師道」とは、ここより北の西新井大師に向かう道であることでしょうか。
現在の千住の宿もここまでくると人通りも少なく、4号線を走る車の騒音が耳に付きます。
しかし「やっちゃ場通り」に沿って掲げられた各商店の屋号とそのいわれには、現代でもとても感心させられるものがありました。
国道4号線と合流する手前、足立市場の入り口にこざっぱりとした芭蕉翁の姿がありました。
国道4号線に出て千住大橋を進みます。
大川を渡っていよいよ御府内に入ります、日光街道に掛かる標識にも「日本橋」という三文字が見えてきました。
ちなみに、隅田川掛かる橋で最初に造られたというこの「千住の大はし」。はじめの橋杭材は、伊達政宗が陸中南部地方から水に強くて朽ちにくい高野槇(コウヤマキ)を寄進し、明治期の洪水によって流されるまで使われ続けたという言い伝えがあります。
その遺構が現在でもこの橋の下に見えると聞きます。
しかし今回は先を急ぐことにして、その確認は後日改めて。
それにしても…。
池波正太郎著小説「鬼平犯科帳」に、作中登場する同心沢田小平次や密偵小房の粂八らが、お頭平蔵の命を受け「賊は千住の宿に入りました」と報告をする行を思い出します。
もちろん電話も車も無いその時代。彼らが頼るのは己の目と足のみであり、清水御門外の役宅からこの千住まで往復するには、たっぷり一日は要したことであろうかと。
それを考えると、今この大橋を渡る車のその数の、なんとおびただしいことかと…。